カミーノ巡礼。トラオンナタビ。

サンティアゴ・デ・コンポステーラを目指して約800km旅!

チェコ旅行。7日目(オストラバ⇄オシフィエンチム)

オストラバ⇄カトヴィツェ⇄オシフェンチム

今日は日帰りで、チェコから国境を越えてポーランドへ行ってきました。

この旅をしている中で、ふとした時に感じられる「戦争の痕跡」。
ドイツの真っ黒な建築物の煤。再建した綺麗なポーランドの街並み。その他、中欧諸国の社会主義の名残。たった数週間の観光で痛いほど伝わってきます。

今回、旅行している中でポーランドに行くなら、絶対に「アウシュビッツ」に行くといいよ!という声をたくさんの方々からいただきました。
始めは予定していなかったのですが、次いつ行けるかわからないな〜と思い直し、急遽ポーランドにある「アウシュビッツ」まで足を伸ばしてきました。


アウシュビッツ・ビルケナウ収容所とは、ヒトラー率いるナチス・ドイツ第二次世界大戦中に国家を挙げて推進した人種差別による絶滅政策 (ホロコースト) により、最大級の犠牲者を出した強制収容所のことです。
ここは当時とほとんど姿変わらぬまま残っている唯一の収容所であり、人骨の灰やガス室・焼却炉の残骸、SS医師が人々を選別した場所、人々をガス室へ誘導した道があり、博物館にはユダヤ人より押収した彼らの数万点の遺品などが展示してあります。


私とツルダサンは、チェコのオストラバからの出発。
ドイツに入ってからおずっと世話になっている格安バスのFLIX BUSで、オストラバからカトヴィツェに向かい、そこから列車にてオシフェンチムを目指します。

朝4:50オストラバ駅発のバス。10分くらい待ってもきません・・・。
その後、バスは15分ほど遅れて無事にやって来ましたが、プラハ行きに乗るはずだった台湾人の女の子たちのバスは来なかったみたいで、結局電車に変更するはめになっていました。ちなみにカトヴィツェまでの運賃14.9€。
(このFLIX BUSは格安で有名なのですが、ドタキャンやバスが来なかったり、運転手が愛想なかったりという事でも有名みたいです。)

朝陽に照らされつつバスは順調に走り、6時半にはカトヴィツェに到着。
バスステーションから10分ほど歩き、列車の駅に向かいます。

駅で列車のチケットを購入。
マニュキアばっちりのおばさま。なんとなく英語も通じます。

8:24発の列車チケット、2人で8.94PLN(約270円)です。多分、間違ってふたりとも学生料金になってる?(笑)

この後、1時間ほど駅にて朝食をたべつつまったり。
ここの駅も近代的。マックやサブウェイ、スタバがあります。

久々にスタバでベーグル食べる!カフェラテ飲む!!
レジのイケメンお兄さん、あさみを聞き取って名前を書いてくれました。

日本人の名前って結構、聞き取りづらくて覚えてもらえないみたいですが、巡礼者たち曰くあさみは聞き取りやすくて覚えやすいそう。良かったぜぇ!



スタバにはご当地マグも売ってます。図柄が斬新。。。

カトヴィツェからオシフェンチムに列車で移動〜。結構、新しい列車です。


約1時間半後、オシフェンチムへ到着!

オシフェンチムという地名はポーランド語で、アウシュビッツはドイツ語でのここの呼び方だそうです。どこか似てるような気もします。。。ナチス・ドイツ時代には地名すら奪われたようです。

駅からは歩いて20分ほど。歩道が整備されているので天気が良ければ、歩いていけます。


アウシュビッツ・ビルケナウ博物館に到着です。
私たちは数日前に急遽予定を変更したので、チケットのネット手配や現地での日本語ガイドをお願いできなかった為、当日にチケット販売の列に並び入場しました。
朝10時前に到着したのですが、1時間弱ほど並んで英語ガイドでのチケットを購入。値段は50PLN(約1500円)。

可能ならば、予めチケットとガイドを予約をしていくのがベスト!
現地には、公式の日本語ガイド中谷剛さんという方がいらっしゃるようで、とても詳しくガイドしてくださると有名な方のようです。
(今回は予約のタイミングが遅くて無理だったのですが、次の機会があったらぜひお願いしたい!もっと詳しく知りたい!!)




約30分ほど待ち、ツアースタートです。
ちなみに、ツアー前にショップで日本語の案内本を購入して参加しました。担当してくれたガイドさんの英語はかなり聞き取り難くて、後ろのツアーガイドさんはかなり聞き易かった(´;ω;`)


ナチス・ドイツは、ナチスの人種理論に基づく“優れた”ゲルマン民族の支配と“劣った”民族(ユダヤ人またはロマ、スラブ民族)の命運を定める権利を主張しました。

1939年ドイツ軍のポーランド侵攻に続き、ソ連軍による侵攻で開戦した第二次世界大戦。これによりポーランドの国土が分割され、オシフェンチム一体もドイツに編入されました。
1940年ドイツ軍がデンマークノルウェー、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクを攻撃、1941年にはユーゴスラヴィアギリシャに侵攻し欧州の大部分はドイツの占領下となりました。
オシフェンチムアウシュビッツ)は占領下の欧州でほぼ真ん中に位置し、欧州中から年齢、性別や思想に関係なく多くのユダヤ人、ロマといった民族が集められ、最終的には数カ所の殲滅施設で大量に殺害されたのです。その中でも、最も大規模な収容施設となったのがアウシュビッツ・ビルケナウです。


アウシュビッツ収容所の門前にはナチスのスローガン「ARBIET MACHT FREI(働けば自由になる)」の鉄アーチが掲げられています。
しかし、ここでは働けども働けども自由のない過酷な労働、そして死が待っていたそうです。

敷地の中に入ると、強制収容者を収容する煉瓦造りのバラック小屋が立ち並んでいます。


収容所の入り口では、新しい収容者が到着するたびに歓迎の音楽としてオーケストラの演奏がなされました。
そして、これらの演奏を聴いた収容者たちは「ここでの生活はそれほどひどいものではないのかもしれない」と安堵したといいます。

そして、この後ナチスのSS医師たちによる“選別”がはじまり、労働不能とみなされた収容者の大部分(女性や子供、老人、病人、障害者)が、ガス室に即時直行、殺害されたのです。

この地図は、強制移住者がどこの都市から出発してこの地に集められたのかを表したものです。

そして、その下の写真には1940〜1945年の間にどれだけの人々がこのアウシュビッツに強制収容されたのかを示しています。

110万人  ユダヤ
14万人  ポーランド
2.3万人  ロマ
1.5万人  ソ連人捕虜
2.5万人  その他ナチス占領下の欧州人

130万人  (合計)
そして、110万人がこのアウシュビッツで犠牲に。(うち約90%がユダヤ人)

アウシュビッツには建物のほかにも衝撃的な重罪の証拠がたくさん残っています。

ここへ強制連行された人々は、まず組織的な略奪にあいます。
ナチス・ドイツにより貴重品(宝石や通貨)はもちろん、衣服や靴、その他日用品も没収の対象になりました。
女性に至っては髪の毛を切られ、産業用の原料として生地やフェルト製造用の材料にされたそうです。

たくさんのサンダルや靴、歯ブラシやコップ、義足。
そして、おびただしい髪の毛をみて、もう途中から写真を撮る気力がなくなり、この後はただひたすら見学のみ。


この後はガス室を見学。

死を選別された人々は、ガス室に誘導される前に服を脱がなければなりませんでした。
前室にはシャワーに見せかけたもの、脱衣所には長椅子やハンガーが設置され、それは洗浄後に自分たちが収容所に移送されると強制移住者に信じさせるためのものでした。
死が待ち受けていると気づかぬ人々は、ガス室に入れられ「ツィクロンB」というシアン化合物の殺虫剤により無残にも殺されていったのです。

その後も、
収監時に作成された記録用の写真が壁一面に飾られる回廊。
死が待ち受けている人々の悲痛な表情だけでなく、笑顔の写真もあります。


強制労働者たちが生活した居住バラック。木製の簡易寝台。
非常に劣悪な住環境で夏は35℃、冬はマイナス20℃にもなるこの地で、木製の三段ベットが並べられ、人々がひしめき合い寝起きしたといいます。


SS医師の人体実験の数々。
ユダヤ人女性の断種実験や潜伏期間制定のチフス感染、多胎児の研究など、様々な目的で非人道的な実験が行われました。
また、ほとんどの実験は、麻酔なしで行われ犠牲者に苦痛を与えたそうです。


銃殺刑が行われた「死の壁」。柱(宙吊り)の懲罰台。
捕まった脱走者を処刑する集団絞首台。見せしめのために点呼時に執行されました。
この点呼も毎日朝夕行われ、極寒や極暑のなか意味もなく収容者を立たせたままにし、ガス室送りにする者の選別に利用することもありました。


ガス室で殺害された犠牲者たちの死体を焼く焼却炉。(1日に340体の遺体を焼却することが可能であった)
殺害された犠牲者の焼却を担っているのもまたゾンダーコマンド(特別労務班員)と呼ばれる収容者でした。おびただしい数の遺体を運び処分する彼らは比較的、優遇されたようですが、数ヶ月ごとに彼ら自身も口封じのために処刑されたと言います。


初代・収容所所長をしていたSS大佐ルドルフ・ヘスを処刑した処刑場。
大戦後、ポーランド人民最高裁判所の判決により1947年4月に戦犯として絞首刑に処されました。その絞首台は奇しくも毒ガス室・焼却炉の真横にあったのです。



今回、ぜひ行ってみたいと思い訪れたアウシュビッツ収容所。わたしが想像していた以上に、重苦しい歴史を持つ土地でした。



少し休憩して復活してきた後、
アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館のビルケナウ側にも行ってきました。アウシュビッツから3kmほど離れているところがビルケナウ(ポーランド語でブジェンジンカ)という地区にある収容所跡です。
アウシュビッツからビルケナウへは無料シャトルバスが通っています。


とても広い平野の一角に線路やバラック小屋、その残骸が残っています。
この日は天気も良く快晴だったため、ここに強制収容所があったという事実を知らなければ、ピクニックでもしたくなるような、のどかな田舎の風景にもみえました。

1944年春には、この地には300棟ものバラック小屋、40棟のSS兵舎に病院が建設され、16kmにもわたる有刺鉄線の柵に囲まれていたそうです。

バラック小屋や線路などの間には高圧の電流が流れる有刺鉄線が張り巡らされています。

ユダヤ人殲滅のための輸送車は、終点となる収容所の中心にあったランペ(降車所)に停車しました。
そして、この地で50万人以上のアウシュビッツ強制移住者であるユダヤ人が、到着後すぐにSS医師により選別され、労働不能とみなされた大部分の人々がガス室へと送られ、その日のうちに殺害されたのです。


ランペにたたずむ貨車。

見張り台。

バラック小屋の残骸。
廃墟の中で目を引くのが緑の中に残る赤茶色のレンガの煙突たちです。
ここにバラック小屋が建っていたことが見て取れます。写真の奥に見えるバラック小屋はレンガ造りで700人を収容できるものです。180ある寝台は4人用でしたが、実際は6〜7人で使用していました。
保健・衛生設備の整っていない人が溢れかえった小屋はシラミやネズミが大量に発生し、チフス赤痢などの伝染病が蔓延していたと言います。

ランペの両側にあるガス室と焼却炉の残骸。
このビルケナウのガス室では100万にものユダヤ人が犠牲になりました。
この施設は、1944年10月にゾンダーコマンドの反乱、その後のソ連軍の接近を察知したSSによる証拠隠滅により破壊されました。



ゾンダーコマンドが収容所外に送った当時のガス室・焼却炉の隠し撮り写真。


以上が、私のアウシュビッツ・ビルケナウ博物館の見学記録になります。

本当はもっと見てきたものを伝えたいのですが、私のブログではこれが限界です。
もし興味を持った方がいたら、自身でも色々と調べて見てください。
収容者たちの収容所での劣悪な生活・労働環境、収容者間にあるヒエラルキー(頂点にいた監視員のカポたちの存在)など様々な悲劇を知ることができます。


最後に
今回、実際にアウシュビッツ・ビルケナウ博物館を見学して、戦争による「負の遺産」を目の当たりにして、ベタなことを言うようですがとても貴重な経験となりました。

このブログで、ナチスドイツの大量虐殺(ホロコースト)のことばかり書いてますが、アウシュビッツを実際に見学してみて脳裏に浮かぶのは、「日本も同じようなことをどこかでしていたのではないか?」という疑問です。
多分、していたのかな?いや、こんなに悲惨な大量虐殺はしていない?
でも、実際はどうなのか?戦時中に日本が他国にどこでなにをしたか全く知らない自分がいることに気づかされました。

戦争を体験した世代がいなくなってくる今、そろそろ向き合わないといけない、知っていかないといけないのかな〜と思っています。
とりあえず、帰国後に落ち着いたら、日本の戦争記念館を訪れてみようかと思っています。



アウシュビッツ・ビルケナウ博物館、ありがとう!!!





その後、ビルケナウからアウシュビッツ側に戻り、また歩いて駅に向かいます。
どんより沈んでた気分を切り替えるために、コカコーラ飲みます。
ライムフレーバーでスッキリ爽やかです。

コホラ(チェコの不味いコーラもどき飲料)は裏切るが、コカコーラは裏切らない!

しかし、ここで問題発生!!
オシフェンチム→カトヴィツェの列車チケットを駅で購入しようとしたところ、予定していた列車が土日運休なことに気づき、夕方18時のカトヴィツェ→オストラバのバスに間に合わないことが判明。。。
少し焦ったものの、20時発のバス(1人9.9€)に変更できて問題解決!

1人だったら焦っただろうけど、ツルダサンと2人だったから焦らずなんとか対応できたぜ。日に日に海外での適応力が増しています。(笑)



ということで、夕方まで時間があいたので昼食をオシフェンチム駅前のレストランで食べることに!
MENU DNIA 14.90PLN(約450円)。多分、今日の日替わりメニューってことだと思います。

日替わりメニューは、このスープとメインのフィッシュフライ、そしてパン付き。どれも少し変わったハーブが効いて美味しいです!
そして、安い〜〜〜。やっぱりポーランドは物価がかなり安いです!!!


この後は、レストランでゆっくりして、オシフェンチムからカトヴィツェへ列車で無事移動。

そして、20時までデパートで買い物で時間潰して、またFLIXバスを利用してチェコ・オストラバまで無事に戻ることができました。
宿に戻ったのは22時過ぎ、朝早くからの移動でヘトヘトです。さささ〜とシャワー浴びて明日に備えます。

明日は、また新たな国オーストリアに移動です!楽しみ〜〜〜



ではでは、ブエン・カミーノ!